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中河原海岸(橋北中学校水難事件)

女子生徒36人が亡くなった日本最悪の水難事故

1955年(昭和30年)7月28日、終戦から約10年後にこの事故は起こりました。

三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が同市中河原海岸(文化村海岸)で毎年恒例の水泳訓練中に集団溺死した、日本最悪の水難事故です。

戦争が終わってまだ10年、当時学校にはプールなどなく水泳の授業は海でやるのが当たり前の時代だったそうです。

訓練は7月18日~28日までの予定で開始し、7月28日の最終日まで順調に行われていました。しかし最終日の水泳テストの時にその事故が起こったのです。

 

毎年訓練が行われるその海は、満潮の時ですら数十m幅の砂浜が残る遠浅の海でした。

最終日のその日は無風で天気は快晴。海面の波は穏やかで水泳する区域を前日より広げたものの、波打ち際から沖合いまでの距離を約41mとし、水深は1m足らずでした。

最終日のテストも何事もなく終わると思われていました。

テストの方法は波打ち際から10m間隔で旗を立て、旗のところには男子水泳部員が待機して、2本めの旗まで泳げた生徒には20mと距離が書かれた距離札を渡すというものでした。当日テストに参加した女子生徒は約200名で、その200名は泳げない者が大半を占めていました。

水泳テストが開始したのは午前10時。開始したわずか数分後(2~5分後)に事故は起こりました。約半数の100名ほどの女子生徒が一斉に溺れたのです。生徒のほかに女性教諭まで一緒に溺れたそうです。

 

遭難者の大半は一年生の女生徒で最後の能力テストのため各班ごとに海へ入っていたもの。遭難者は泳げない組で岸から約10メートルのところでジャブジャブやっていたところ、突然高波が襲いかかり、足を波に奪われてあわてて救いを求め、先生の身体にしがみつくもの、手をあげて沈んでゆくものでしゅら場となり、他の組で泳いでいた先生もかけつけて次々に救い上げた。

(朝日新聞1955年7月28日夕刊「女生徒36名絶望か 津市 水泳講習中おぼる」)

 

事故時の状況

教員のひとりが自転車で近くの芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げて医師などが現場に急行、救い上げられた10数名にカンフル剤の注射や人工呼吸を施しました。

その後、連絡を受けた樋口病院から自転車で医師が駆けつけ、その様子を見た警察がはじめて事故のことを知ったそうです。警察は三重県立大学医学部附属病院や伊勢市の山田赤十字病院に応援を求めます。院長を含めた医師13名と看護婦8名が到着したのは、事故から2時間以上が経過した12時15分であったそうです。

さらに14時50分には山田赤十字病院から医師6名と看護婦10名も到着しました。

最終的に49名の生徒を救助し賢明な処置により13名は意識を回復しますが、残念ながら36名は手遅れだったそうです。橋北中学校の学校葬は翌月の8月1日に行われました。

同月8月6日には岩田川で亡くなった生徒達の冥福を祈る灯篭流しが行われ、花火を合図に人々が黙祷を捧げました。

 

事故の原因

事故原因は未だにはっきりしてはいないが、一説によると「離岸流」という自然現象が原因になったのではないかと言われています。その当時は離岸流という言葉がまだなく事故後の裁判では「異常流」と称されていました。

 

上記画像では海に流した紫のインクで離岸流の流れを確認しています。

波打ち際から沖合に向かってできる潮の流れのことで、遠浅で海岸線が長く波が砂浜に対して直角に入る、この条件を満たす海水浴場などで突如現れる自然現象のことです。

幅10m程度で局所的に強い引き潮が起こり、もしも巻き込まれたら波打ち際へ戻ることはまず不可能です。

離岸流に捕まった時の脱出方法は、流れに逆らわず海岸線と平行方向へ泳ぎ離岸流から脱出、もしくは一旦この流れに乗り、沖で離岸流の流れが弱まってから平行に逃げ海岸に向かう。

泳げない者が大半を占める中学生では、このような脱出方法は不可能だということは想像するまでもないことでしょう。

原因は離岸流だったのではと言われるものの結局事故の真相はつかめず、この事故をきっかけに現場一帯の中河原海岸はいまも遊泳禁止になっています。

この水難事故および同年5月に瀬戸内海で起こった紫雲丸事故で多数の児童と生徒が溺死したことが契機となり、全国の小中学校にプールが設置され水泳の授業が義務教育の課程で必修化されました。

 

生存者の証言

事件後、生存者である複数の女子生徒が下記のような不可解な証言をしていたそうです。

 

「黒い塊のようなものが迫ってきた」

「沖合で泳いでいた級友を海へ引き込む黒い影を見た」

「ぐっしょり濡れた防災頭巾をかぶったモンペ姿の女性を見た」

「真っ白い無表情な顔をしたモンペ姿の女性が海底からみんなを引きずり込んでいった」

 

事故からちょうど10年前の1945年7月28日(奇しくも同じ日付)に、津市への米軍の空襲があり、空襲で海に避難した女学生たちがこの海岸で水死したという証言があります。

B29爆撃機による空襲で市街地のほぼ全域が焼失。その日の死者は600人と言われています。

この空襲により火葬場が消失していたため、遺体は津市のこの海岸に埋められたと言われています。埋葬された無縁仏は水難事故の犠牲数と同じ36人という記録まであるそうです。中河原海岸に遺骨が埋められたという話は下記引用の「週刊読売」に掲載されました。

事故の翌年(56年7月29日)には地元紙に空襲と水難事故との因縁を語る住人の様子や生存者の談話が掲載され、地元では戦争被災者の霊の仕業ではないかとささやかれたようです。

 

十年前の七月二十八日、米空軍の落す焼夷弾を避けて海へ漬かった避難民百名ほどが、場所も全く同じ中河原のミオで溺死したという。その時も例の“タイナミ”(安濃川の河口の水と南北へ流れる上げ潮がぶつかって起る波)が起って、アッという間に百余名の命をのんだというが、いまもそのあたりの砂浜には、当時の避難民の遺骨が埋められている…(『週刊読売』昭和30年8月14日号)

 

心霊報道

事故から8年後の1963年7月に発刊された「女性自身」では生存者の証言が掲載されました。

 

「弘子ちゃん、あれを見て!」私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが、とつぜん私の右腕にしがみつくと、沖をじっと見つめたまま、真っ青になって、わなわなとふるえています。その指さすほうをふりかえって、私も思わず、「あっ!」と叫んでSさんの体にしがみついていました。

私たちがいる場所から、20~30メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人、吸いこまれるように、波間に姿を消していくのです。すると、水面をひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは、ハッと息をのみながらも、その正体をじっと見つめました。

黒いかたまりは、まちがいなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいておりました。夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした。

(女性自身1963年7月22日号「恐怖の手記シリーズ(3) 私は死霊の手からのがれたが… ある水難事件・被害者の恐ろしい体験」一部抜粋)

恐怖の手記シリーズ1

夏が来ても、ここ三重県津市の海岸には人っ子ひとり見えません。そのわけをはじめて公開いたします。
弘子25歳

「弘子ちゃん、あれを見て!」私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが、とつぜん私の右腕にしがみつくと、沖をじっと見つめたまま、真っ青になって、わなわなとふるえています。
その指さすほうをふりかえって、私も思わず、「あっ!」と叫んでSさんの体にしがみついていました。私たちがいる場所から、20~30メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人、吸いこまれるように、波間に姿を消していくのです。
すると、水面をひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは、ハッと息をのみながらも、その正体をじっと見つめました。
黒いかたまりは、まちがいなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいておりました。
白い顔が近づいて、夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした。
思いきり足をばたばたさせて、のがれようとしましたが、足をつかんだ力はものすごく、下へ下へと引きずりこまれてゆきます。

そのとき、左のほう50メートルぐらいのところに、校長の沢田先生の立っているのが見えました。
「先生、助けて!」
だが、波の音にかき消され、先生のところまでとどきません。つい先ほどまで、いっしょに叫んでいたSさんは、いつの間に水中に没してしまったのか、姿が見えなくなっています。
もう自分の力に頼るしかありません。死にたくない。どうしても生きたいと願いながら、したたか海水を飲みこんで、私も魔の手にひかれるまま、海中に沈んでいきました。
しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりついてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表清な顔を、はっきりと見つづけていました。

恐怖の手記シリーズ2

意識をとりもどしたのは、浜辺でした。
「あ、気がついたぞ」私の顔をのぞきこんで叫んだ人々の顔が、私には、海の底で見た女の白い顔に見えて、ふたたび気を失っていきました。
この事件で36人もの友だちが水死したということを聞いたときは恐怖と悲しみで気も狂わんばかりでした。
助かったのは、わずかに9人。その中で、私がもっとも重症で、肺炎を併発し生死の境をさまよって、20日間の入院生活をつづけねばならなかったのです。
その間、私は「亡霊が来る!亡霊が来る!」と、うわごとを言っていたそうです。
私は退院すると、この恐ろしい思い出を一刻も早く忘れようと努力しました。それをどこから聞きつけたのか、新聞記者がたずねてきて、私に「亡霊を見たそうだが」と、しつように聞きます。だが、いっさい話をしませんでした。
いったい、文明の開けたこの世に亡霊の存在を信じてくれる人がいるでしょうか。たとえ話しても、あの事件で頭がおかしくなったんだろうぐらいで笑われるに違いありません。だから、自分だけの胸の中でじっと耐えているほか方法がなかったのです。ところが、あの海岸と恐ろしい事件を結びつける実話を耳にする機会がおとずれました。
それは事件から三年後、私が三重県立津女子高一年になった夏のことでした。

この浜から人影の消えた理由

学期末試験の準備も一段落して、夕涼みをしていたとき、一人の恰幅のいい老人の訪問を受けました。
津市郊外の高宮で郵便局長をしているYという人です。
「私は、長年、霊魂の研究をしてきました。あの事件のときに、あなたは、きっと亡霊を見ていると思ったのでおたずねしました」
事実、私はあの事件のことを、そろそろ忘れかけていたのです。はたして自分の見たのが亡霊だったろうか、あれは夢の中のできごとではなかったかしらとまで、考えられるようになっておりました。
「いや、あの海岸に亡霊が出ても決して不思議じゃない」
Yさんは、ゆっくりと、次のような話をはじめました。
あの事件のちょうど10年前。終戦まぎわの昭和20年7月28日、B29の大編隊が津市の上空を襲った。市内に落とされたおびただしい数の爆弾は、みるみるうちに死傷者の山をつくり、防空ごうのない人々は大きな建物の地下室を求めて、右往左往していた。
そのなかでも、警察署の地下室に逃げこんだ人々の最期はあまりにも悲惨だった。近所の建物から出る煙が地下室に入りこみ、警察署は焼けなくても、地下室にいた人は皆、煙にまかれて窒息した。
死者は250名をこえていただろう。その処理に困った市当局は、海岸へ捨てることに決めたが、漁師たちが反対したので、一部は油をかけて焼き、残りの大部分は砂浜に穴をほって埋めてしまったのだ。「あの浜辺の松の木を見てみなさい。みな枯れている。あれは、死体のアブラで枯れたのだよ」
山本さんの言葉に、私は吸いつけられるように引きよせられていきました。

恐怖の手記シリーズ3

「あなたたちが遭難したのは、ピタリ10年前と同じ7月28日だったのです。これは、ただ偶然といって片づけられるものじゃない。」
私は、あの日の防空頭巾をかぶった女の白い顔を、まざまざと思いだしていました。
-ああ、やっぱり私の見たのは幻影でも夢でもなかった。あれは空襲で死んだ人たちの悲しい姿だったんだわ-。
私の放心したような顔をじつとみつめていたYさんは、また話しだしました。
「あの日、事件を知ったのは郵便局長会議で昼食中に聞いたラジオの臨時ニュースでした。私は、そのときぼんやりと10年前の光景を思いうかべていたので、思わず、『あたりまえだ!』とどなっていました。みんなの驚きと非難の目をあびながら、空襲のときの状況を説明してあげました。私には、二つのできごとを切りはなして考えられないのです。
それから三年間、あなたのように生きのこった人たちをたずねて話を聞いてまわりました。その結果、9人のうち5人までが亡霊の姿を見たといっているのです。また、浜辺にいた生徒たちの何人かも、それを見たといっています。しかし、だれもが恐怖にとりつかれて、決して自分から口を開こうとはしません。あなたの見たのは、防空頭巾をかぶり、モンペをはいた女の人たちではなかったでしょうか」-私は、大きくうなずいておりました。

私は、津女子高校を卒業すると近所にある三津自商事というガソリン・スタンドの事務員として就職しました。
水難事件以来、六年余の月日がたっていましたので、私も当時のショックから完全に立ちなおり、海の底で見た亡霊のことを、自分から積極的に調べたいと思うようになっていました。
だが、調べるほどに、無気味な事実を知らされました。
私たちの水難事件の前日(27日)、海から大きな火の玉がとびあがり、浜辺にある家の屋根に落ちたのを、海で釣りをしている人々が何人も見ていたこと。
そしてその家の娘さんが私と同様に遭難し、しかも死亡している事実も……。
また、私たちの事件のあと、7月になると毎年一人ずつ、不思議な死に方をしていること。
それは腰までつかって釣りをしていた人が、突然何ものかに憑かれたように、沖に向かって歩きはじめ、そのまま海中に没して、死体さえもあがらないという事件が過去四年間続けて起こっているのです。
まさに恐怖というほかはありません。そのうちの一人はYさんの親友でWという人でしたが、幸いそのときは助けられたものの、病院で20日間も、「亡霊を見た。亡霊を見た」とうなされつづけ、ついに意識不明のまま他界しています。
最近では、K電話局の局長をしていたNという人が、宴会のあと、一人で海岸へ歩いてゆき、そのまま行方不明となり、三日後、海岸に死体が打ちあげられた事件がありました。Nさんには家庭の不和はないし、人に恨まれることもなく、新聞には原因不明の死として報じられたに過ぎませんでした。
だが、私には原因がはっきりわかる気がします。
これは自殺でも他殺でもない。WさんもNさんも、あの海にいる死霊に招きよせられたとしか、私には思われません。
私たちの遭難事件から一年たったのち、浜辺の片すみに多くの死者の霊が安らかに眠るように祈って、海の守りの女神像も建てられました。
もうすぐ、運命の7月28日はやってきます。今はだれも訪れなくなってしまったこの浜辺に立ち、どこまでも青い空と海を見ていると、あの恐ろしいできごとも信じられないようです。
荒れ放題の女神像に今年こそ、恐ろしいことが起こらないように、祈らずにはおれません。

※クリックすると手記の全文が読めます。

 

奇跡体験!アンビリバボー 三重県津市中河原海岸奇譚

この生存者の女生徒のひとり梅川弘子さんの証言は以下のように語っていたと言う。

「水面をひたひたとゆすりながら黒いかたまりが向かってきたので黒いかたまりをジッと見ていると、それは何十人もの防災頭巾をかぶったモンペ姿の女性で、その防災頭巾をかぶった女の顔は白く無表情。夢中で逃げても足を捕まえて下へ下へと引きずり込んでいき、そのまま意識を失ってしまった」

この証言がきっかけでその後、数々の心霊書籍や心霊特集が放送されることになります。

心霊番組として放送された「奇跡体験!アンビリバボー」では梅川弘子さんが出演していて、この時ハッキリ「防空頭巾の亡霊を見た」と発言しています。

 

「奇跡体験!アンビリバボー 三重県津市中河原海岸奇譚 再生時間:9:38」

 

海の守りの女神像

事故からちょうど1年後の1956年に海岸から少し離れたところに女神像が建立されました。

空襲や水難で亡くなった方々を鎮める慰霊碑として建立されたそうです。

海岸からは堤防に遮られていて見えませんが、堤防の先の住宅街にひっそりと建っています。

石碑のところにはお花などが供えられており、来訪者のためにベンチも設置されています。

 

空と海を見守る女神像は何を想うのでしょうか…。

海岸の方を静かに見つめ、これ以上の犠牲者が出ないよう見守ってくれています。

36人の犠牲者を出した水難事故からも遊泳禁止と知らずに泳ぎ、命を落とす人が後を絶たないそうです。この像には血の涙を流すという噂話があり、未だ終わらない悲劇を憂いているのかもしれません。

事故から数十年が経ち風化させないよう執筆致しましたが、犠牲者の方々のことを想うと胸が苦しくなります。空襲で亡くなった方々、水難で亡くなった方々に哀悼の意を捧げます。

 

地図

名称:中河原海岸
住所:三重県津市高洲町33-6

コメント

  1. 匿名 より:

    怖いですね

  2. 匿名 より:

    って茅根ゆのすき見てへ札への四つさて不町だねリスカで蒸して虫やつむでめてしてメチで無知でふみステ冬使徒しゅぬ

  3. 村西聡 より:

    バーガースチキ

  4. 匿名 より:

    怖いですね

  5. 匿名 より:

    くつしつ

  6. 匿名 より:

    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75236?page=3
    そして重要なのは、先述した『女性自身』の記事以来、現在に至るまで中河原海岸事故の亡霊の目撃者とされてきた梅川弘子氏(梅川は旧姓、現在は中西弘子氏。以下中西氏と表記)は、一度も亡霊を見たと証言していないということである。
    中西氏はその後何度も書籍やテレビ等でこの事件について語っているが、その都度亡霊を見た証言者、もしくは見ていない証言者という真逆の二つの立場で登場している。
    そして『死の海』にて後藤氏が改めて彼女に話を聞いたところ、本人は亡霊を目撃したこと話したことはなく、『女性自身』に手記として掲載された記事も、実際には記者が中西氏の話を元に書いたもので、彼女の証言とは食い違うのだという。
    つまり中河原海岸の亡霊たちは、メディアによって作り出された怪異だった。

  7. 剣刀太子王 より:

    この話、うしろの百太郎か恐怖新聞で読んだ覚えがあるなあ…事実だったのか